管理人について

私の人生史のページです。結構長いので、短いバージョンはこちらの投稿をご覧ください。

日本語教師アシスタントとして 

19歳の時にカナダに留学し、初めて外から日本を見る機会を得て日本語教師と言う職種を知りました。そして、日本語教師能力検定の合格を目指し短期コースを受講し、当時合格率が確か5%だったと思います。試験は手応えのないもので、私は直ぐに『試験に合格する意外に日本語教師になるための道はないか』と情報収集の為にその足で紀伊國屋に寄りました。アルクが出版している”日本語教師になるには”(的なタイトルだったと思います。)を買って家に帰りました。テストの結果は驚くものではなく、勿論この5%に含まれてませんでした。そして、ほぼ1年後に日本語教師アシスタントのボランティアとしてオーストラリアの渡豪が決まりました。21歳の秋でした。現地高校のアシスタント教師の仕事は主に11年生、12年生と会話したり、宿題を手伝ったり、テスト問題を現地高校の先生と作ったり様々でした。その年のシドニーだけでなく、オーストラリア全体がある事で大きく湧き上がっていました。2000年のシドニーオリンピック開催が決定した年でした。私は心に決めました『2000年のオリンピックまでシドニーに居るんだ!』

ワーキングホリデー、留学生を経て

日本語教師アシスタントとしての1年はあっという間に過ぎ、外国人として生活する私には滞在するのにビザが必要です。アシスタントの時は文化交流ビザというスペシャルなビザが発行されてい他のですが、そのビザが切れ、手っ取り早く取れるのはワーキングホリデービザ(ワーホリ)でした。ワーホリとして再来豪、レストランで働きながら日本語教師養成講座(直接法)を受講しました。受講中から日本語教師として働く機会も頂きました。ここでの日本語教師として仕事はこの先もずっと続いたのです。“IT”と連呼され始めたのはこの頃です。日本語教師の仕事は本当に自分にぴったりの仕事だと思ってはいたのですが、コンピューターが使えない私はいい教材が作れない事に気づいてしまったのです。それと同時に、大学卒業資格を持っていない私がこの先、オーストラリアの学校で日本語教師として採用される事が皆無である事にも気づいたのです。この二つの気づきは私のその語の人生を大きく左右するものでした。そして、思い立ったら直ぐに行動を起こすクセを持つ私は、シドニーのITの専門学校(2年)に入学し、と同時に日本の通信教育で学位を取れるコースに申し込みました。最初の2年は日本の大学から送られてくる教科書がどんどんとベットの下に溜まっていくだけの日々でした。と言うのもITの学校の出席と提出物、その合間にアルバイトをして学費を稼がないといけなかったのです。IT学校の奨学生の枠をもらってもなお払えなかったので、異例の3ヶ月毎に払うことを認めてもらってました。IT学校を卒業を控え、ようやく通信大学の方に手がつけられる有様でした。この時点でもう2年が過ぎてしまっている。通信なので、何年かけても良いのですが私は4年で卒業したかったのです。その後、2年で4年分の勉強と提出物をこなし、予定の4年で卒業することができました。この頃、結婚もしました。ちょうどシドニーオリンピックが開催されている頃です、結婚相手とヨーロッパを1ヶ月半ほど旅行しました。渡豪1年目の私が誓った通り、シドニーオリンピックまでシドニーに居ることができましたが、それを見る事はありませんでした。そして、その5年後に離婚をしたのです。ワーホリ、学生時代に出会った人達は今もなお付き合いがあり、私の大好きな人達です。出会ったのはシドニー、そして2021年現在多くが世界のあちこちで活躍しています。本を出版した仲間も数人います。これからの活躍も期待しています。

日本語教師養成講座の講師

結婚生活を始めた頃、日本語教師養成講座(直接法)の講師の仕事のお話を頂きました。ITスキルを身につけていた私はウェブデザイナー、日本語教師養成講師、日本語教師としての仕事をこなす約5年ほどの期間がありました。この時期、私の日本語能力が一番高く、言語としての日本語をとても愛していました。日本語を話すわかる人間で良かったと自分を誇りに思っていました。だって、3種類の全く異なる文字を使用する言語のネイティブなんですよ。すごいラッキーです。比較言語学にもとても興味がありました。一つの言葉について深く考えてり、言葉の選択をどのような場面で使い分けているのか?などネイティブだからこそ出来る日本語の言葉遊びを楽しんでいました。と、同時にそろそろ次に動かないとなーとも考えていました。この時点で日本語教師の仕事に携わって7年ほどが過ぎ、この業界の先が見えてきた頃でした。

教育の対象が変わる

ある日、一人で街ブラをしていた時、ふとふわっと何かが私の思考に降りてきました。
『そっか、幼児だ!』
コンテキストと全く関係なくそう思ったのです。その後も私の思考はどんどんと広がり続け、街ブラから帰った時には私の心は落ち着き、しっくりしていたのです。日本語教師アシスタントをしていた頃の教育の対象は中高生、その後は大人でした。私は子どもの教育について全く無知だったのです。思い立ったら行動を起こす私です。すぐさま履歴書を作り、全く無知で未経験の保育園へ手渡しで配り歩きました。園の一つから声がかかりChildcare assistantとして働き始めました。初日、同じチームの同僚にこの子のオムツ変えて来てって言われて、『えっ、どうやってやるの?』の返答にびっくりした彼女の一言『どうやってこの仕事見つけたの?』でした。その後幼児教育の大切さ、奥の深さ、そして日本の保育園や幼稚園の考え方や幼児へのアプローチの違いに大きく驚きどんどんとのめり込んで行くのでした。

幼児教育って奥が深い、大学院へ

ある日、チームのリーダーがから『幼児教育の免許取ったら?あなたのやっている事と私のやっていることに大きな差はないよ。ちゃんと資格とった方が給料も上がるし、将来もあるよ』とアドバイスをもらいました。大きく納得した私は、折角なら学歴も上を目指そうと大学院で幼児教育の資格が取れるコースを探し、フレックスタイムで働けるオフィスの仕事を州に3回しながら大学院に通いました。本当に幼児教育は奥が深くて、面白い。2年かけて大学院を卒業しました。私が取得した資格は、日本にあるのでしょうか?幼児、児童を専門とする教師の資格で、0歳から8歳までを教える事ができます。活躍の場と言うと、保育園、幼稚園、学童、小学校(2年生まで、校長判断で6年までOK)になります。卒業後は市が経営する保育園で教師として週に3日の職に就いたのと同時に、シドニーの小学校で週1日バイリンガル教師として、土曜日は日本人土曜学校で小学生を教えていました。私が大学院で学んだ幼児教育は『子どもは遊びながら学ぶ』が根本にあり、子どもの考えやアイデアに対して大人が解釈して発信するのではなく、子ども自身が表現することに重視するもので、先生が授業を進めて行くようなスタイルは全く推奨されていません。ですので、初めは小学校で教える際に違和感だらけでした。

現地公立小学校バイリンガル教師として勤務

オーストラリア連邦政府により2009年1月に施行された「学校教育におけるアジア語・アジア学習推進計画」(National Asian Languages and Studies in School Program (NALSSP)をきっかけに導入され2010年より当校でのバイリンガルプログラムが開始されました。2010年は週一度、翌年2011年より正規教師として配属され今年で11年目に入ります。この10年で、幼稚園生から6年生まで教え、教えた教科は理科、社会、体育、コンピューター、図画工作、美術、ダンス、ドラマ、算数そして勿論、日本語リテラシーです。本当に何も無い所からのスタートでした。教育省からの指示、カリキュラム、フレームワーク、プログラムも何もなく、おまけに教材が何ひとつ無い状態からのスタートでした。しかし、日本語を教えた経験、更に直接法(Direct method)を完全に身につけていた私にとっては、ターゲット言語だけを使って教科の内容を教える(CLIL)と言うのはテクニックとしては同じなので、教える対象年齢が変わっただけで、問題はありませんでした。

またまた大学へ

オーストラリアは多言語国家で、家庭で英語を話さない子や、英語が母国語でない子どもを対象にしたプログラム(EAL/D)が義務教育にあります。10年ほどバイリンガル教師をする傍ら、そのような子ども達の助けになりたいとの思いが日に日に大きくなり、資格を取るために大学院のコースを仕事をしながら取得しました。そして大学のコース開始とともに始まったのがこの世界的パンデミックCOVID-19。大学のコースは無事に終わり、資格も取得したのですが人の動きが抑制されるこのご時世、海外からの移住者が極端に減りEAL/D教師として活躍出来ないままでいます。しかし、まだ何か私にできる事があるのではと言う思いでこのサイトを立ち上げました。今までの様々な教師経験や教材をシェアすることで、誰かのお役に立てたらと思っています。

管理人の得意分野

  • 言語教育
  • 幼児教育
  • クリル(CLIL)
  • 直接法
  • 言語教材
  • 教材開発
  • ホームラーニング

何か質問等ございましたら、ご連絡ください。

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